- March 20, 2010
水曜日もNo観劇日。
というか観劇も余り日常になると瑞々しさが失われるので良くないなぁと思いつつも何かを取戻すかの様な勢いで観ている。
今日はたまたま伊藤麻希の住んでる地域に行ったので食事をした。
普段伊藤はモッソリとした荷物を持っているイメージだったので、
自転車で手ぶらで来た時には何故か苛っと来てしまうが、其処は彼女のテリトリーなので仕様が無い。
私はアウェーなのだ。
ちょっとでも発言を失敗すると、路地からワラワラと人が出て来てあっという間に囲まれるだろう。
夜中急遽翌日に観に行こうとエイブルアート(障害者が健常者と共に作品を制作する)のダンス公演の予約を音楽で関わっているSKANKさんに連絡を取る。
こうして全然観るつもりもなかったのにスッと観たい物を観に行こうと思い立てる環境って素晴らしい。
こうして観ようと思った理由の一つに、少し前に丈さん(以前の出演者の大石丈太郎)がエイブルアートの演劇を観に行っていたく感激して電話を掛けて来た事もある。
障害者の佇まいの強さに打ちのめされたらしい。
そういえばこの前人と話していてふいにこんな話を聞いた。
先天的な障害を持つ者より、途中から障害を持った者の方がその世界で差別される事も有ると言う事。
例えば聴覚障害者の場合、生まれ持って聴覚が聴こえない人の方が、途中から聴覚を失った人を揶揄する事も有る、という話。
勿論その現場を自分が目撃している訳ではないが、先天的な人が途中からの障害者を指して「ハンブン」というらしい。
別に皆がそういう訳ではないだろうし、ごく一部の話なのかもしれないけれど。
そういう世界も存在するという事。
で、健常者から考えると、通常反対のイメージを持つんじゃないかと思った。という話をした。
つまり、先天的な方が揶揄されるんじゃないかと。
でもそうではないという事に、何か色々考える種が有るなと思った。
例えばパラリンピックでも、水泳の場合、足がそもそも動かない人の方が途中から動かなくなった人に較べると、記録を出し易いと聴いた。
それはもしかすると、全く意識しない事で、水の抵抗を軽減するとか、単純に上半身が発達しているとかそういう事なのかもしれないが。
兎に角、何かを失う事で、逆に発達する事も有るし、始めから持ってない事で、優位に立つ事も有るみたいだ。
前に[不憫]という公演を行った時もそういった部分を題材にしていたけれど、
あの作品に関しては、もっと行けた筈だ。まだあれは触りの、表層的な部分のみだった。
あのテーマは、その内にもう一度挑戦したいとは思う。
とまぁ何だかそんな事を考えながら観ようと思う。
色々考えて居る時に、丁度良いタイミングで観劇出来るなと思って楽しみにしている。
そういえば伊藤の話から大分逸れていたが、路地から人が出て来る事も無く、無事に帰れた。
取急ぎ。
- Newer: 研ぎすまされて失う物とスターの有効期限は
- Older: 無差別に